FC2ブログ

『カミーユ』 大森静佳

歌集
06 /03 2018


著者の第二歌集。2013年から2017年の歌、240首ほどが収まっています。


狂うのはいつも水際 蜻蛉来てオフィーリア来て秋ははなやぐ


『カミーユ』の冒頭の一首。歌集の最初の歌にしてはインパクトが強い歌だと思う。そして、歌集全体にこの歌にあるような、明暗、狂気、儚さ、などが流れているように感じた。死や性愛も多く詠われていて原始的という言葉もあう。

歌集にはオフィーリアのほかに、歌集名の由来となっているカミーユ・クローデル、宦官、『曾根崎心中』、旅客機を故意に墜落させたとされているパイロット、チンギス・ハンの夭折した妹など、暗い影を持つもの達がいくつも登場する。

作者はそういった対象を、こちら側から見ていたり、自身と重ねたりして詠っている。そのものになっているかのような歌や、乖離しているような歌もあり、読むのに時間がかかる。けっこう重さも来る。その重さはテーマ自体の重さや作者がそれに入り込む力の重さ、単純に作者と対象のものとの二人分の重さというものもあるのかもしれないと思う。


暮れ残る浴室に来て膝つけばわが裡の宦官も昏くしゃがみぬ
汗を噴くのみの彼らの性愛は果てることなく夜を濡らす笛
虚ろって気持ちがいいね 貝殻のように皺寄せながら太って
(「異形の秋」)

目の前にないものを詠うことはむつかしいだろうか。目の前にある、ない、は詠むことの難しさとは関係が無いのかもしれないと、そんなことは今まで思ったことがなかったけれどこの歌集を読んで初めて思った。対象とするものをどこまで見つめて愛せるか、がとても大きいと思う。



ロダンからいくつもの<手>を任されてそこここを夢の淵としたひと
ひとがひとに溺れることの、息継ぎのたびに海星(ひとで)を握り潰してしまう
ダナイード、とわたしは世界に呼びかけて八月きみの汗に触れたり
(「ダナイード」)

作者は能面を彫る方でもあるので、ロダンやカミーユが登場する「ダナイード」の章は作者の姿が特に重なり浮かんでくるようだった。過去のこととそれを詠む今の作者との境界線の不確かさがいいと思った。



『カミーユ』は過去の出来事を作者の目を通して作者の世界で表現した歌がとても多く、すんなりと読める歌ばかりではなかったので、現在を詠んだ歌の章が現れると、気持ちにほっとするものがあった。自転車運転のギアがふっと軽くなるという感じというか。と言っても、詩の美しさというものは伴われたまま。

背後より見ればつばさのような耳きみにもきみの父にもあった
冬の虹途切れたままにきらめいて、きみの家族がわたしだけになる
かわるがわる松ぼっくりを蹴りながらきみとこの世を横切ってゆく
(「冬の虹途切れたままに」)


全身できみを抱き寄せ夜だったきみが木ならばわたしだって木だ(「わたしだって木だ」)

歌いたいものへと向かう作者の真っすぐさ。相聞歌では少し不器用さも見える気がして、歌集に登場する人物たちと惹きあうものがあるのは自然なことのように思えた。


『カミーユ』/大森静佳/2018年/書肆侃侃房

コメント

非公開コメント

ukaji akiko

塔短歌会。ふだんは赤煉瓦歌会に参加しています。スガシカオ好き。気軽に好きなことを書いてゆこうと思います。

プロフィール欄がなぜか二つになっていて直りません。

Happy go Lucky!