『日付のある歌』 より

歌集
08 /12 2017
河野裕子さんの第十歌集。

河野さんのことを知らずに塔に入会して、初めて買った河野さんの歌集。
一日一首詠んでいくというスタイルで作られていて日記風ということになるのでしょうが、日記ではなくやはり歌です。

今日読み返してみて九月八日の一連がとてもいいと思った。


九月八日  

眠らざる子を眠らすと出でて来し夜の稲田の昨夜より匂ふ

赤ん坊の眠たきからだとつぷりと稲田の中に沈みて進む

小さな子一歳(ひとつ)のこの子は皆忘れわれらのこゑも忘れて眠る

この世にはあなたとの時間がまだ少し残つてゐてほしい子を押し歩む

倖せな一生なりしとまた思ふあなたと母が心残りの



詞書には、‘雨、夕方やむ。今夜も永田と櫂の夜の散歩‘ とある。


雨がやんで、まだ空気に水が残っているようなみずみずした感触がある。

三首目の初句の、小さな子、という心から自然にあふれたような言葉。

五首目は勘違いしそうにになったが、まだ、乳がんのことは分かっていない時に詠まれている。
母親と永田さんのことにいつも心を寄せている河野さんだったのだろう。


赤煉瓦歌会のメンバーにも河野さんの歌と出会ってからの後の日日がそれ以前とまったく大きく違うのだろう、と思われるかたもいる。

誰かの歌に自分が変わるくらいの強いなにかをうける。
私はそういう経験がないから、すこしうらやましい。

『日付のある歌』 河野裕子/ 二〇〇二年/ 本阿弥書店

どこをひらいてみても歌

歌集
08 /10 2017
早い。はっと気づけば葉月も十日。大晦日もその辺りの角に立ってるんじゃないでしょうか。

今日、人を待っている間に本棚の本をちょちょっと動かして、何とはなしに栗木京子さんの『けむり水晶』を手にとりひらきました。

水色のカバーが涼しい。

ぱっと開いたページが夏の歌だったのでしばし立ち読み。読んでいたのに忘れていた歌もあり、時間もたっているので新しい気持ちで読みました。


独り居の夜の深さよ蝉の真似してから桃を食べはじめたり

夏山より戻りたる子のリュックあり刑期終へ来しごとくしづかに

母ひとり住む実家なりしんしんとどの押し入れも月光詰めて

錯覚の最たるものはなつかしさ 水引草の咲く野をあゆむ

薄切りのれんこんを酢にひたすときわが十枚の爪はなやげり



一首目。独り、夜、蝉、と静けさが広がっている。深い夜の中で作者だけが動き、おどけた後に桃を食べながらさみしい感じがする。

二首目。リュックに詰め込まれているあれこれとリュックそのものが、山での役目は果たしたよ、やるべきことはちゃんとやったよ、と刑期を終えた者のように何も言わず、疲れた感じで寡黙にいる。

三首目。一人で住む母親。一人だから布団の数も多くなく押し入れに空間がある。押し入れを開いた時、その空間には月光が差し白さが浮かびあがる。

四首目。なつかしさを錯覚といっているのでしょうか。なつかしさというような形としては見えにくい事柄について言い切っているような歌い方に理知的というかそういうものを感じます。そして作者は、錯覚と言いながらそこに身を置いている。そよぐ水引草がやさしい錯覚をうまく表現していると思う。

五首目。薄切りのれんこんと爪。両手をふわーっとひらいている様子。白い色彩のなかのはなやげりがきれい。

以上、どこをひらいてみても歌、でした☆彡


『けむり水晶』  栗木京子 /2006年/角川短歌叢書/角川書店


『人魚』染野太朗 続き 好きな歌

歌集
06 /10 2017
胸倉を掴んでまでもこいつらに伝えんことのなきまま掴む

しがみつくあれはぼくだな新宿の高層ビルの窓のひとつの

引っ越してベランダの幅に足らざれば捨てたり春の物干し竿を

海を見に行きたかったなよろこびも怒りも捨てて君だけ連れて

水差しに水がそそがれ水差しの水がそそがる 旧いかなしみ

涙つたう頬もあわてて拭う手も十六歳は日焼けしており

ナポリタンふいに食いたし口拭いて紙ナプキンをあかく染めたし

生徒ひとりレシート整理を始めたり風つよき日の春の窓辺に

唇のうすき男に割り込まれ吊革さえもとおい春なり

でもそれを拭わなかったそのほうが夏を凌げるような気がして

目が覚めてメガネを探すまるで愛を知っているかのように手を伸ばし

つけ麺を君と食いたし君よりもちょっとだけ早く食い終わりたし

『人魚』 染野太朗  続き

歌集
06 /10 2017
先生が悪いよ そうか、悪いか と答えしのちを揺れは始まり
「分け合う」という小さい章の初めの一首。この後地震が来てその状況を詠んだ歌が数首並ぶ。
この一首はとても面白い見方が出来る一首だと思う。
なぜかというと、自分が悪い、と答えることと揺れが来ることに因果関係などあるはずないのにそう歌っているように感じてしまうからだ。この感想はひと通り歌集を読んだ後、再びこの一首を読んだ時に持った。
歌集を読んでいくと、揺れないでいることやそのままでいることを詠んだ歌が多いと気づく。

本棚の上の花瓶のガーベラは震えはしたが倒れなかった
畳まで届いたポトス揺れている リモコンで扇風機を止める
コーヒーがコーヒーカップに注がれて動きを止めるまでの数秒
レジ打ちのバイトがしたし延々と釣りを渡してひと日を終えたし
でもそれを拭わなかったそのほうが夏を凌げるような気がして


以上のような歌を読んだ後に再び冒頭の一首を読んだので一度目とは違った感想を持ったのでした。

作者は高校教師で、生徒とのやり取りの歌も多い。
教室の中の雑雑した感じ、生徒への感情的な言葉、どれもがきれいごとでなく真に迫ってくる。

歌集にはとてもストレートな歌と、人魚や蝶やとんぼが登場する幻想的な一連があります。全体を通して生々しい触感があり、迫力がある。読む前に『人魚』という歌集名からイメージしたものは儚さやきれいなものやファンタジー的なものでした。読み終わると、人魚という姿がとても暴力的なものを含んでいるように思えて、ふーっと息をついてしまいました。

『人魚』角川書店 2016年


『人魚』  染野太朗

歌集
06 /10 2017
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作者自身の心の奥底にあるものが流れ出しているような独特の雰囲気のある歌集だと思う。

会いたき人なくて夜明けは眼裏の海へ無数のわれが落下す

『人魚』を読みながら思ったことのひとつは、ここに歌われている<無数のわれ>のこと。

作者の目に映る他人や生き物。歌集にはそうした自分以外のいろいろなものへ〈われ〉を行き来させようとしているように感じる歌がある。その思いは刹那的で次の瞬間は〈われ〉に戻ってくる。〈無数のわれ〉というのは、在り得たかもしれない幾通りかの自分のことでもあるのだろうと思う。

水曜日の区民プールに浮きながらぼくを見ている脳性麻痺の子
公園を出てゆく野球少年の誰ひとりぼくでなしこの五月も
しがみつくあれはぼくだな新宿の高層ビルの窓のひとつの
略奪をし強姦をし殺人をしてわたくしは深く眠るのだろう海辺に
会いたき人なくて夜明けは眼裏の海へ無数のわれが落下す

五首目は、たくさんの<われ>がいるのにそのどの<われ>にも会いたい人がいない、という寂しさ。落下という終わりのような言葉が諦めのように悲しく歌われている。


また、他者を見るように外から自分を確かめているような歌もあり、これも〈無数のわれ〉のなかの〈われ〉と思って読んだ。

阿佐谷の北二丁目の豆腐屋で「あげを二枚」と言ってはみたが
吉祥寺ヨドバシカメラ四階でそっと扇風機を持ち上げた
わたくしは耐えていました脚二本四月五日のこたつに入れて


(続く)

ukaji akiko

塔短歌会。ふだんは赤煉瓦歌会に参加しています。スガシカオ好き。気軽に好きなことを書いてゆこうと思います。

プロフィール欄がなぜか二つになっていて直りません。

Happy go Lucky!